王馬小吉の存在が頭から消えてくれない ― ニューダンガンロンパV3感想?

※この記事には作品の重大なネタバレが含まれます

※この記事はニューダンガンロンパV3の重大なネタバレを含みます!

今更ながらニューダンガンロンパV3をクリアした。
今更とはいっても、今年の7月上旬のことだ。クリアしてから3ヶ月が経つ。
それなのに、ずっと王馬小吉が頭の中から消えてくれない。考え過ぎて日常生活に支障を来すレベルだ。
なんとか自分の中の感情を整理する必要があると思い、このnoteを書いている。

王馬が頭から消えないから整理したいと言っても、王馬の話だけをするつもりではない。王馬に思考を囚われたのはV3のことを考え過ぎたせいでもあるので、むしろV3全体の話がメインになると思う。
というか自分の脳を整理するために書くので、正直なところ、現時点ではどんな記事になるかわかっていない。
ただ1つだけ確実なのは、本記事はニューダンガンロンパV3の重大なネタバレを多く含みます。未プレイの方はブラウザバックを強く推奨します。

また、V3の作品考察や、王馬自身の考察を含むような記事にはなっていないはずなので、そういう面は期待しないでもらいたい。
ちなみに自分はシリーズ通してV3が1番好きだ。

フィクションだからこそリアル

V3-6章は、彼らが作中世界でもフィクションの存在であることが明示される。それも、V3で登場した超高校級の16人だけでなく、それまでのダンガンロンパシリーズの全員がフィクションだと言う。
今まで見てきた彼らの根幹が揺らいでしまう、衝撃的な展開だ。

だが、なぜ衝撃的だと感じてしまうのだろう。
彼らがフィクションであるのは、現実世界の我々からすれば当たり前のことである。ダンガンロンパはスパイクチュンソフトが開発した、セーブやロードで簡単にやり直しができる、ただのゲームだ。
フィクションであると分かっているものが、フィクションであると明言されただけ。それだけなのに、なぜこんなにも苦しく感じるのか。

その答えは、フィクションだと明言されていない他のキャラクターたちの存在にあるのではないか。

V3の作中に出てくるのは、超高校級の高校生である彼らとモノクマたちだけではない。
悪趣味な視聴者や、才能もなく誘拐されただけのプロローグの一般人。ダンガンロンパを制作するスタッフたちに、ダンガンロンパに憧れて参加したいと考えるオーディション参加者。

彼らももちろん現実世界からしたらフィクションだ。
だってダンガンロンパは現実世界ではゲームなのだから。

だけど、フィクションである超高校級の彼らの希望や絶望を楽しんでいるのは、才能のない一般人は、ダンガンロンパを愛しているのは、他でもない現実世界の自分だ。
あの作中の名もなきモブたちは、もしかしたら自分なのではないか。

そう感じた瞬間、フィクションだと明言されたはずの超高校級の彼らの存在が、むしろ現実のように思えてくる。
なぜなら、作中世界のダンガンロンパV3はリアルフィクション。性格や過去は作られたものだとしても、彼らの肉体は作り物ではない。ダンガンロンパV3で描写された彼らの言動は、作中世界では実際に起こったこと。
現実世界ではフィクションであるはずの作中世界のモブが自分なのだとしたら、作中世界の超高校級の彼らの言動も、自分にとってはリアルなのだ。

現実世界からすれば、どんな創作物であろうと作中で描写されることがその創作物の全てだ。現実世界に彼らの過去や未来が存在するわけではない。だけど製作者が考えた設定により、作中世界にはキャラクターたちの過去は存在している。
だがV3の彼らは、作中世界ですらこのコロシアイ生活の数十日しか存在していない。それより前の物語も、後の物語もない。
彼らにとって唯一の本当がコロシアイの日々だけだなんて、そんなつらいことがあるだろうか。
そしてそれを苦しみながらも楽しんでいる自分は一体なんなのだろうか。

そんなことを自問自答しているところに、最原の「この胸の痛みは本物」が突き刺さる。

資料集を読む限りでは、制作側はここでプレイヤーに最原と同じ思いを抱いてほしかったらしい。
確かに自分も仲間たちを失う苦しみを、赤松や最原を通して追体験した。だがあくまで自分は安全圏から彼らを操作し、苦しみをエンタメとして消費するプレイヤーにすぎない。

作中世界の人物と自分を重ねるのであれば、自分は最原にはなれない。
視聴者として彼らを観て、視聴者として彼らがリアルだと感じてしまった。

ただ1つ言い訳じみたことを言うのであれば、自分は視聴者と違い、みんなに苦しんでほしいなんて思ってゲームをプレイしていたのではなかったということ。可能であるなら、全員最後まで生き延びてほしかった。(自分はダンガンロンパを推理ゲーとして楽しんでいるので、「デスゲームである必要はない」は本心から言える。)
でも、最後までプレイしておきながら、「彼らの苦しみをエンタメとして消費したわけではない」だなんて言うことは、私にはできない。

王馬小吉

王馬といえば「嘘」が象徴的なキャラクターだが、まずは少し違う角度から彼の話を始めたい。

はじめて彼の研究教室に入ったときは衝撃を受けた。「夢の秘密基地じゃん!!!!!」と(最原には若干ディスられたが)。そして、この研究教室を好ましいと、自分に誂えて作られた教室だと感じるのが王馬小吉なのかと。
その衝撃は、彼の動機ビデオを見てより一層強くなった。

自分も祖父母宅の物置にゲームと漫画とお菓子を持ち込んで、秘密基地だと言い張っていた時期があった。友達と隠れて作戦会議して、自分たちが世界を変えるんだと信じて疑っていない頃があった。
彼はそんな子どもの頃の自分の妄想みたいなことを、高校生になっても大真面目に実践している。実際に秘密結社の総統として、世界を股にかけて大暴れしている。
もちろん彼の組織であるDICEは作中世界ですら設定に過ぎない。だけど彼の作中での言動は、DICEの総統としての設定がベースになっている。つまらなくないということに全力を懸けるところ、強い覚悟を持って物事を実行するところ、どこまでも用意周到なところ、そして誰にもそれを悟らせないところ。それらはただの設定ではなく、実際に作中で描写された彼の才能だ。
彼は自分が子どもの夢だと諦めてしまったことを本気で叶えている。そんな彼がとても眩しく思えた。そしてもっと彼のことを知りたくなった。

創作のキャラクターに何を、と思う人もいるだろう。だが、嘘の象徴である彼ですら、もはや自分にとってはリアルなのだ。

王馬は息をするように嘘を吐くのはもちろん、超高校級の総統という具体性のない才能も、現実では再現できないような表情も、何もかもがリアルではない。

シリーズの中でも、死体や死の瞬間がはっきり描写されていないのは王馬だけだ。本当の死因も明確にはなっていない。
ひょっとしたら、死すら嘘だったんじゃないかと思ってしまうことがある。(百田がプレス機を動かしている以上、そんなはずはないのだが。)

何が本当か分からないからこそ、本当の彼が知りたくなる。
知りたくて知りたくて知りたくて、何度もV3をプレイしてみたり、彼の発言を全て書き出してみたり、色々な人の考察を読み漁ったり、とにかく毎日のように彼のことを考えている。

ところで、王馬は誰よりも自分たちが見世物にされていることにムカついていた。誰よりも明確に視聴者へ敵意を向けていた。

そして何度も言うように自分は、そんな視聴者の1人だ。

王馬のことをもっと知りたくてゲームを起動すれば、自分は王馬にとって憎むべき存在である視聴者になる。好きだから知りたいのに、知ろうとするほど彼の嫌いな人間になってしまう。

それでも毎日彼のことを考えているものだから、どんどん彼のことを好きになってしまって、このループは終わらない。申し訳ないと思いながら、今日もゲームを起動している。

こんなことを言いつつも

ここまで読んで、こいつは現実と創作の境界線の破壊がかなりやばいレベルで起こっているのではないかと心配した方。安心してほしい。

確かに本編の王馬をリアルに捉えすぎて、紅鮭や育成計画、ハピロンの王馬は顔が同じだけの別軸の人間だと思っている。最原の通信簿でさえ、こんな無邪気な人物が本編王馬と同一人物なのかと疑っている。

だけど、例えば「『肉とトマトは食べられない』と言ってたし、嫌いなものは豚足なので、ベジタリアンの可能性もあるのでは?」とか、「ハチャメチャなことしてるように見えて、B型じゃなくA型なんや…」とか、普通にキャラ萌えレベルの話ができるくらいには分別はついているつもりだ。

王馬に限らず、V3の再編や逆行、実はみんな死んでないよ展開、オールキャラギャグ等、そういう二次創作を受け入れられるレベルであることは明記しておきたい。

推しとはこういうことなのか

1人のキャラのことを毎日考え続けたのはおそらく初めてだ。こんなに真剣にキャラ考察をしたのも初めてかもしれない。

好きな作品はたくさんあるけれど、特定のキャラクターを好きになることはほとんどなかった。基本的にどのキャラも好きで、特別好きなキャラを聞かれると困ってしまう。

V3も、4章が特別好きという理由でキーボと入間が他より若干好きな気はするが、他もそれぞれエピソードを出して全員語れるくらいには好きだ。
(4章が好きでなぜその2人?という話と、他メンバーの好きポイント、各章の感想は別途記事にしたい。おそらく私が視聴者側の気持ちになった理由がよく分かる記事になります。というか2×2も出るし、シリーズの記事も書きたいところ…。)

王馬は好きというか強制的に興味を持たされて、毎日のように触れているうちに「これが好きってことなのか?」と錯覚させられているだけのような気もする。通信簿や紅鮭の最原の気持ちがよく分かる。

だけど、推しがいるというのはこういうことなのだろうか?
毎日真剣にキャラのことを考えて、調べて眺めてアウトプットする。

これがいわゆる「推しのいる生活」というやつなら、あまりにもメンタルが削られるけれど、生活にも支障が出るけれど、それでも幸せなのかもしれない。

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